「兆しのシーズン」

海外で生活したことのある人の話によれば、外国人の人々から「日本」についてたずねられたとき、意外にも日本人であるはずの自分自身が、何も日本のことを理解していないことに改めて気づかされるといいます。このことは、外国人のイメージする「日本」自体が、今の日本人にとっては非日常的な日本であるからかも知れません。中でも、衣食住の筆頭である衣服としての「きもの」について、あまりにも何も知らないことに多くの人はカルチャーショックを受けるようです。日本のオリジナリティはどこにあるのか、日本らしさとは一体何なのかなど、改めて問われるとたしかに的確には答えづらい問いであるといえます。だからこそ日本文化の真髄を学びたいという発想は立派なものですが、そうしたことに開眼したこと自体をまずは評価すべきでしょう。なぜなら、今まで気にもしなかった物事に対する価値観が変化を遂げたということなのですから。和文化の未来は、そうした契機となるスイッチといくつ出会えるかでかたちが変ってくるものと思われます。

そうした個人の持つ価値観に変化を与えるスイッチの所在が、最近少しずつ増えてきていることは、実に喜ばしいことではありますが、ナチュラルな視点から日本を感じるアプローチはまだまだ少ないような気がします。たとえば、様々な分野で盛んに取り上げられている、「和の文化を見直そう」的な提起は、なんとなく斬新味に欠けるような気がします。なぜなら、全く反対の視点で、「見直さなければならない今」の具体的な現状を知ることの方が意外と困難な気がしますし、それを知ったときの方がはるかにインパクトが大きいと予想されるからです。過去の事実を見直しながら、よりよいものに整えてゆくのは、それからでも決して遅くはないでしょう。人物に対しても「見直した」という表現をよく使いますが、それはその人の「ほんとう」を理解して初めて使える言葉でもあるのです。

たとえばきものに関して、「見直さなければならない今」の具体的事実をひとつご紹介しましょう。決してその是非を論じるつもりはありませんが、度肝を抜くサムライの姿です。
http://www.zdnet.co.jp/magazine/pcjapan/0211/sp1/
(※このリンク先は2002.11.16現在のもので、将来消滅の可能性もあります)

もちろんこれは、あくまでも単なるイメージフォトであって、本来の和装とはなんら関係なく、このパソコン誌に苦言を呈しても仕方ありませんが、日本人の不正確な「キモノ・イメージ」を絵に描いたようで、実にスゴイことだと私は思います。袴の上に帯を締めるというスタイルが、どのような発想から生まれたのか興味あるところですが、この驚くべき事実も、日本の日常の一コマであり、伝統文化を語るきものの世界もまた、同じ時代で繰り広げられている一コマであることを、改めて認識しなおす必要がありそうです。つまり、海外生活の体験者たちが受けたカルチャーショックをも上回る事実が、我々の暮らす日常の中でも堂々と巻き起こっているのです。

そうした認識をふまえて言うならば、きものは、ようやくファッションとしての活路を求めはじめていますが、本来の機能に気づくのが半世紀以上遅かったことを反省すべきかも知れません。珠算や習字などの習い事のように、継続するのを一度やめてしまうと、あれほど自由闊達にこなせていたことが全くできなくなるのと同じです。着装の手順はおろか、本来のデザイン性までも白紙の状態に見えてしまう人が多くなってしまったのです。もはやそのことの良し悪しを論じること自体無意味であり、誰もそれを責めることはできませんが、きもの文化の存続を願うならば、日本人が誇るべき和装品の数々の存在とその行方を本来の姿に戻す努力が必要となることでしょう。滅びの呪文を唱え続けるのか、未来への扉を開く鍵をその手にするのか。選択するのは自由です。だからこそ、人間界は面白いと思うのです。





2002年11月16日 掲載
    
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