「健康であればこそ」

ある着物業者のメールマガジンの中で、「片手を半分使えないような不自由さ」という表現を目にしました。ちょうどその頃、交通事故で右手を負傷したおかげで、ほんとうに片手が全く使えなかった私にとって、これは正直言ってギョッ!とするフレーズでした。それはある物事のたとえ話に使われただけのようでしたが、不特定多数に向けて使用する表現としては、やはり不適切です。別にそのメルマガオーナーに向けて抗議のメールを出したわけでもなく、ここに書いたことで抗議しているつもりでもありませんが、本当に片手が不自由で着たい着物が着れなくて、きものを諦めている人がいるかもしれない、ということに気づいて欲しいなと思いました。何よりもそうした人の気持ちを考えて言葉を使って欲しいとも思いました。一度発した言葉は、その瞬間から既にその人のものではなくなり、思いの全てが意図どおり伝わるとは誰も保障できないのです。もちろんそんなことを説明しているこの文章にも、同じことが言えるわけですが。ちなみに私の場合は、「全くその通り、には違いないけど・・・。」と思っただけで、別に落ち込んではいませんのでご心配なく。

それよりも、きものを着る上でほんとうに片手が全く使えないとなると、これは不自由を通り越して不可能を意味します。着付けのマナーもテーブルマナー
も用無しです(これらも健常な人を前提に作られたものだと実感できます)。
別のコラムで書いた、着物の不便さを意味する不自由とは意味が違います。やってみるとわかりますが、まず帯が結べません。人に着付けてもらっても着崩れが直せません。帯の端を口にくわえたり、あらゆる方法を試みましたが私には無理でした。少なくとも両手で普通に着るようにはいきません。私の場合は利き手の右手だったこともあり、この時点で怪我が治るまで自分できものを着ることは諦めざるを得ませんでした。しばらくは家内に着付けを手伝ってもらっていましたが、ギプスが取れた頃からリハビリも兼ねて洋服を着ることの方が多くなりました。不可能と言うには至りませんが、実は洋服を着るのも当初は大変でした。これも試してみるとわかります。いかにヒトのカラダがよくできているか思い知ることができます。そしてまた、きものを着ると言う行為は、洋服以上に全身の筋肉を事細かに使うことにも驚かされます。何事もほんとうに健康であればこそですね。

きものが好きで仕方がない皆さん、くれぐれも私のような怪我はしないよう気をつけてくださいね。そしてまた、ネットで気軽に発言を繰り返す皆さんも、今回ご紹介したような、何気ないコトバの行方が波乱を呼ぶことのないよう、これまたくれぐれもご注意ください。


退院の日に。
2003年8月26日 掲載
    
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